中央アジア2002

砕葉城で合流した天山道は、天山山脈の北麓を西へタラスを経て、康国(サマルカルド)で大宛(フェルガナ) からの道を合わせ、プハラ、メルヴを経てイランからローマに通じている。
玄奘(三蔵法師)はこの道を辿り、康国から南に現在のアフガニスタンから、当時仏教が最も盛んであった ガンダーラに向っている。
またこの道は、ジンギスカンが率いる蒙古騎馬軍団が、 南に北に駆け抜けた道でもある。
この中央アジア一帯は、シルクロードの交易に最も貢献した商いの民、ソグゾ人が拠点にした地域である。 東の中国と西にペルシャ、ローマの間の物資の交換は、このソグゾ人が担ったと言っても過言ではない。
しかしこのソグゾの民も、各時代に於ける強国間の争いに翻弄され、やがて消えていった。

ビシュケク

ビシュケクはキリギスタン共和国の首都である。1900年頃に作られた新しい町であり、 南に天山山脈を望む美しい町であるであるが、歴史上にその名が出る事はない。
長い時期ロシア(ソ連邦)の支配下に有った為か、ロシア系の人が多い。
最近政変により、大統領が追放され事を発端に、中央アジア一帯の政情不安が発生している。

    「レーニン像」

ビシュケクには、ソビエット連邦時代の名残りであるレーニン像が残されている。
ソビエット連邦を構成していた他の共和国では、見られない光景である。
噂話では、撤去する費用が無いからとも言われているが?、次の訪れた時は、どうなっているのであろうか
    「アラトー広場」

国産の大理石をふんだんに使用した、綺麗に整備された公園である。
周囲には農林省、国立銀行等官公庁街で有りながら、遠くに天山山脈を望む景勝の地でもある。
最近大統領が追放された政変時には、数万の群集で埋め尽くされたと報道された。
    「子供」

キリギスでは今日が(6月1日)子供の日で、学校がお休みとの事、公園では多くの子供が遊んでいた。
地方と異なりビシュケクでは、服装等も洗練された子供達が多い。民族的にもロシア系の人が多い。
カメラを向けると、ポーズをとってくれた。

国境越え

ビシュケクから西へバスで約2時間行くと、カザフスタンとの国境に着く。国境越えは簡単である。
さらに西へ、シルクロードの大きな市場町であり、世界史に残る古戦場であるタラス、さらにシムケント から2時間ほどで、ウズベキスタンとの国境に着く。荷物のX線検査は有るが、出入国審査は簡単である。
ソ連邦時代の共和国間の移動の感覚か、草原を自由に移動した遊牧人の名残りか、比較的国境間の移動は 厳しくない。

    「タラス川古戦場」

751年、唐の遠征軍とアッパース朝のアラブ軍が戦い、アラブ軍が大勝利した戦場跡である。
この戦いで捕虜になった唐の紙職人が、紙の製造技術をイスラム世界に伝え、後にヨーロッパに 伝わったと言われている。
今は川幅も狭く、花の咲乱れるただの河原である。
    「アイシャ・ビビ廟」

12世紀カラハン朝のハーンと、商人の娘の悲恋物語が残る霊廟である。ジンギスハーンも、 あまりの美しさに手を付けなかったと言われている。
1973年、軍用機が廟に衝突し大きな被害があり、現在修復中であるが、完全な修復は何時であろうか
幾何学模様を彫刻した美しいタイルに、昔の面影が残されている。
    「パーティー」

チムケントのレストランで昼食をとる。今日は休日であり地元の人がパーティを開いていた。 我々も踊りの輪に巻き込まれ、やもえず踊り始める、もちろん盆踊り調である。
遊牧民族の血を引いている彼らは、とにかく踊りが好きである。何かがあると必ず、楽器を弾き 踊りが始まる。

タシュケント

タシュケントはウズベキスタンの首都であると共に、人口250万を有する中央アジア第一の都市である。
町は近代的であり、中央アジアで唯一地下鉄が整備されている。独立後の国会議事堂もここにあり、 行政の中心地である。
しかしシルクロード?巡る歴史では、その名が華々しく出る事はない。

    「チムール像」

アムール・チムール広場の中央に、チムールの騎馬像がある。以前はマルクスの像が建てられていたが 独立後、この像に立て替えられた。
勿論チムールは、モンゴル帝国崩壊後の14世紀後半、中央アジア、 西アジアにまたがる大帝国を築き上げた、この地の英雄である。独立後、民族の誇りがこの像を 建てさせたのであろう。

ナボイ劇場

1947年に完成したウズベキスタン初の劇場である。第2次世界大戦後、シベリアからこの地に送られ 抑留された日本人捕虜が、建設に携わった建物である。
壊滅的な被害をもたらした、1965年の大地震にも耐え、日本人の技術の優秀さを示した建物であり、 感謝の碑文も残されている。

劇場銘文


    「日本人墓地」

第2次世界大戦後、シベリアに抑留された多くの日本人捕虜が、中央アジアの各地に移され、苦役を 強要され、死んでいった。
彼らはそれぞれその地に埋葬されたが、その後この墓地に集められ 慰霊されている。墓標は大部分埋葬された地区単位で残されている。
日常、地元の人が管理してくれており、綺麗に掃除されている。

サマルカンド

現在青の都と呼ばれる美しい町であるが、中央アジア最古の都市である。
紀元前6世紀頃には、ソグゾ人のオアシス都市が成立しており、この地を占領したアレクサンダーも 驚嘆した、美しい街であり、ソグゾ人によるシルクロード交易の中心地であった。
13世紀初頭のジンギスカンに依る攻撃で、壊滅的に破壊されたが、14世紀後半 チムール帝国の成立により、天文学、建築学、芸術の粋を集めた都市が建設された。

    「壁画」

13世紀初頭のジンギスカンに依る攻撃で破壊された、旧サマルカンドの遺跡であるアフラシャブの 丘から発掘された壁画である。破壊の規模が大きく、この遺跡から発掘された遺品は少ない。
ソグド商人の隊商図であろう、ソグド人の特徴が良く表れている。中国の石窟壁画でも 良く見かける図である。

グル・エミル廟

青の都と言われるサマルカンドのシンボルであり、「支配者の墓」を意味しチムール帝、孫のウルグベク、 その他恩師等の棺が地下に納められている。
内部の装飾は素晴らしく、ドーム状の天井は金ぴか、側壁の材料には絹を使用していると言われている。
シャンデリアは、現在のカリモク大統領が寄贈したらしいが、場違いな感じである。権力を独裁している人は、 チムールに例えているのであろうか。

グル・エミル廟華麗な内部


    「レギスタン広場」

3っのメドレッセ(神学校)で構成されている。神学校は神学だけでなく、数学、科学、天文学も教えていた。
向って左がウルグベクのメドレッセ、向って右がサマルカンドのシンボルである、ライオンと太陽を刻んだ シェルドルのメドレッセ、中央が内部が金で装飾された、ティッラカーリーのメドレッセである。
ライオンと太陽黄金の装飾


プハラ

プハラもサマルカンドと同様、ソグゾ人都市国家の一つとして始まり、サマルカンドと同じような 歴史を持っている。
16世紀初頭のウズベキ族に依るシャイバーン朝から、18世紀のプハラ・ハーン国の時代まで、 国の首都であった為サマルカンドと並んで、大きな都市として栄えた。
ここからシルクロードは南西方面にイランへ、北西方面にはヒヴァを経て草原の道へと 分かれる交易の中心地であった。

    「アルク内城入口」

各種のイベントや、罪人の処刑が行われたアルク広場から見た、城の入口である。
18世紀のプハラ・ハーン国の王が住んだ城である。内部にはモスク、王座ホール、 王の宮等がある。
奇妙な動物の像が有ったが、これは豚をモデルにしたライオンの像との事、 昔の人の想像力に感心する。
    「旧市街」

旧市街全体が世界遺産になっており、現存する街は18世紀、ウズベキ族のプハラ・ハーン(アミール) 国の時代、首都として建設された街である。
ゾロアスター教の名残りを残す、イスマイル・サマニ廟、罪人を塔の上より投げ落とした死の塔、 カリヤンのミナレット等、興味を引かれる建物が多い。
イスマイル・サマニ廟カリヤンのミナレット


    「チャイハナ」

チャイハナとは、隊商たちのオアシスに於ける社交と、休息の場所である。タケシントの青い クールボールや、ここプハラのリャビ・ハウズが有名である。
暑い日差しを避け、池畔の涼しげな木陰で休んでいる人々を見ると、遠い昔シルクロードを旅し、 この場所で休息している、キャラバン隊の姿を想像してしまう。

ヒヴァ

ヒヴァは、カスピ海の北を行くシルクロード草原の道と、オアシスの道をつなぐ中継地に位置する。 古代にはホラズムと呼ばれたオアシス都市である。
ヒヴァ・ハーン国は16世紀の初頭、ジンギスカンの長男であるジョチの後裔が興した国であるが、現実は ウズベキ諸部族、トルクメン部族間の抗争の中で統治が行われていた。
19世紀の初頭、新しい王朝が開かれ、経済、文化の活力が現在の歴史都市ヒヴァを完成させた。

    「旧市街」

旧市街全体が世界遺産になっている町である。
内部には、奴隷の売買が行われていたパルワンの門、 プラハのカリヤンの塔より高いミナレットを持つメドレッセ、ハーンの宮殿(ハーレム)、 17世紀のハーンの居城、クニャ・アルク等町その物が博物館である。
また差別された民族の女性の物乞いが多いのも、歴史的な郷愁を感じる。
ハーレムの装飾天井ミナレット


クニャ・アルク

17世紀に建築された、古き要塞と呼ばれるハーンの公邸である。内部にはモスク、ハーレムの ほかに武器火薬庫、兵舎、造幣所まで有った。
謁見の間の柱は、青色のタイルで装飾されており、 並べられたタイルが全体として、不思議な幾何学模様を成している。
当時もイスラム教であったが、ここでハーンはこっそり酒を飲んでいたと言われている。

謁見の間装飾タイル


    「バザール」

シルクロードの時代には、東西の物資を扱う一大通商広場であった。
現在でも色取り取りの香辛料、野菜や果物、羊や鳥肉が山のように盛られ売買されている。
名物の羊肉の串焼き、シャシリクの屋台も出ており、シルクロードのエネルギッシュな 賑いを肌で感じた。

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