アッシリア商人の道(2012,2013)

古代、メソポタミア(現イラク)からユーフラテス河を遡り、シリア砂漠の東端を北上するとアナトリア高原に到る。この路をアッシリアの商人は錫や織物をアナトリアに運び、アナトリアから金や銀を持ち帰っていた。交易の相手は始めはボアズカレのハッティ人であり、後にヒッタイト人であったのだろう。
アナトリア南部から中部には多くの、アッシリアの交易植民市(カールム)が置かれ、交易を支えていた。この交易路を通じメソポタミアの文化がアナトリアに、アナトリアの貴金属がメソポタミアに運ばれた。これは古代オリエントに於けるシルクロードとも言えだろう。
「ハラン」

シリアの国境から2,30k、シリア砂漠の入り口にある灼熱の地である。訪れた日も40℃を超えそうな気温、立っているだけで汗が噴き出てくる。
この地も紀元前2000年ごろには、メソポタミアとアナトリアの交易路として栄えた町である。預言者アブラハムがカナンの地を目指し立ち寄り、15年間も過ごした町と旧約聖書には記録されている。其の時代の遺跡は殆ど無いが、アラブ(イスラム)の時代に造られた遺跡が残っている。世界最古の大学で、現在塔のみが残っている。

ハランの住い

この地の住まいはとんがり帽子の様な形をしており、内部は中央が空いており空が見える、周囲の高い空気を上に逃がし、室内温度の調整になっており、実際に室内に入って見ると意外に涼しい、これも生活の知恵なのだろう。  
とんがり帽子の家吹き抜け天井

預言者アブラハム

旧約聖書に於いてアブラハム は、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教を信じる民の始祖、ノアの洪水後、神による人類救済の出発点として選ばれ祝福された最初の預言者「信仰の父」とも呼ばれる。 ユダヤ教では全てのユダヤ人の、またイスラム教では、アラブ人の系譜上の祖とされ、神の祝福も律法(戒律)も彼から始まると言われている。
旧約聖書に書かれているだけの存在だったが、シリア北部のエブラの発掘調査に於いて、火事で焼かれたエブラ王国の文庫から、アブラハムの名が書かれた文書が発掘された、所謂エブラ文書である。この文書の解読内容に付いて、ユダヤ(イスラエル)とアラブの間に激しい論争が有り、詳細は封印されている。
    「聖なる洞窟」

シャンルウルファの町は、シリア砂漠からアナトリア高地に入る場所に位置し、メソポタミアとアナトリアの交易都市として栄えた町であり、アラブ側が主張する預言者アブラハム生誕の地である。
因みにユダヤ、キリスト教ではメソポタミア地方の,シュメール人の都市国家のウル(現イラク南部)を主張している。
アブラハムが生まれ7歳まで暮らしたと言う洞窟は、聖地として厳重に管理されている。男女別々の入り口から入り、聖水の湧く場所をお祈りし、聖水を持ち帰っている。「聖なる魚の池」の伝説が残る場所である。

”鉄”発生の地を目指して

シャンルウルファの町の街から北上し、ネムルート山の西側の山裾を行く、ネムルート山を過ぎ道を西に進むとカイセリに到る、カッパドキアへの入り口である。 富士山に似たエルジェス山の裾野に広がる街で、東西、南北交通の要害である。このエルジェス山の数億年前の噴火と、その後の風雪に依る浸食に依り、現在のカッパドキアの大奇岩地帯が造られた。
カイセルから道を北上すると、ハッティ人、ヒッタイト人の都である鉄の発生地ボアズカレに着く、アッシリア商人の目的の地である。
「ネムルート山、カッパドキアの詳細は”高原の道”を参照下さい。」

ボアズカレ

紀元前25世紀程前、この地にはハッティ人と言われる人々が住み、青銅器製品を作り、金、銀等を主体としてアッシリア商人との交易を行い、既に鉄の素材も作り出していた事が、発掘の結果判って来た。
紀元前20世紀頃から北方からヒッタイト人が移住し始め、紀元前1800年頃ヒッタイトの王がここの地形に目を付け、ここを首都と決め王城を築いた。ヒッタイトの部族は集合離散を繰り返したが、ハットゥシリシュ3世の時代には、アッシリア帝国の勢力を駆逐し、アナトリア全域を支配し、シリア中部でエジプトと対峙するまでのヒッタイト帝国を築き上げた。
古代エジプトで最も強力な王国を築いたラムセス2世とシリア西部で戦い、これに実質勝利し、世界最初の平和条約を結んでいる。遺跡から発掘された粘土板に書かれた文書と、エジプトのカルナック神殿に書かれた文書から判った。
ヒッタイトは紀元前12世紀頃、海の民と言われる人達に攻められ滅びたと言われているが、発掘された遺跡の状態を見ると、焼け跡等は全く無く、戦いに依り攻め滅ぼされた感じは無い、整然と移動して往った感じだ、何が有ったのだろう
「ハットゥシャの遺跡」

紀元前18世紀頃から、古代ヒッタイト王国の首都が置かれ、王国の拡大と共にその規模が大きくなった。小さなボアズカレ村から狭い道を少し上ると入り口に着く。
先ず右側に大神殿の跡が、日干しレンガで造られていた様だが、現在は土台の石畳と残された大壺が、丘全体が石組みの城壁で囲われ、ライオン門、スフィンクス門、王の門等6個の門で外部と繋がっていた。
城壁の中央には外に繋がるトンネルが有り、それをスフィンクス門で守っている。兵士たちの出撃に使用されたのであろう。
城壁に積まれた石組は見事な物であり、日本の戦国時代の城の石垣にも劣らない、現在から3500年も前に、この様な高度な技術が在った事に驚く

大神殿の土台見事な石組み
ライオンの門石組みのトンネル

ヤズルカヤ

ハットゥシャの聖地であり紀元前13世紀、岩場をそのまま使用して造られた露天神殿である。 露天で風雨に曝されていたのにもかかわらず、鮮明の彫刻が残っている。
トゥタルヤ王のレリーフ12神の行進